principles


『近自然学の原則』からつづく


applications


近自然学の応用




近自然学の原則』をさまざまな分野で実際に使うとどうなるのか? それが応用。つまり、いずれの応用においても、近自然学の原則その物は有効だ。表面的な形や問題、具体的な手法などに惑わされずに、そのベースになっている原則を読み取って欲しい。そうすればどんな場面のどんな条件においても、『豊かで健康で幸せに生き延びる』ための最良のソリューション(解決策)を見付けることができるはず。



【新しいまちづくり】


都市は必要悪なのか? 環境負荷が大きく、エネルギーや資源を消費するだけではないか?

都市は雇用・教育・文化・テクノロジーなど特別なクォリティーを提供する。そればかりか、負荷は集中しているために、同じ負荷でも環境負荷が受けるダメージが少なくて済むという大きなメリットがある。

都市としたのクォリティーが高く、住みやすく、環境負荷が小さく、しかもランニングコストも低い‥‥そんな都市は可能なのか? 可能である。ではどうすれば良いのか?


コンパクト・シティ

・環境負荷は集中高密度化すれば、同じ負荷量であっても自然環境が受けるダメージが減る(原則編参照

・市街地を低密度でダラダラと広げてはならない

・集中とは市街地をひとまとめにすること、高密度化とは平屋を4階から6階建てにすること

 (エレベーターなしでも快適に使用できる階数は日本では4階まで、スイスでは6階まで)

・市街地をバラバラにするのはダメ、また平屋を地平線の果てまで広げるのもダメ

・都市の集中高密度化は環境へのダメージを低減すると同時に、都市の機能性を高め、便利で快適になる


・我々の豊かさや利便性のためには利用面積(三次元で考えれば利用する体積)が欲しい

・環境負荷はその周囲の長さ(三次元で考えれば、周囲の表面積)で決る

・つまり、できるだけ大きな面積(体積)を確保しながら、できるだけ周囲長(表面積)を小さくしたい

・それが、円または正方形(球または立方体)だ

・逆に、同じ面積(体積)でありながら、環境負荷が大きいのが細切れや細長い形状


1.が最も表面積(環境負荷)が小さく、2.、3.、4.と次第に大きくなる


ユニット分割:ユニット化

・大都市はいくら集中高密度化しても大き過ぎて住みにくい

・そこで、さらに内部を住みやすい規模に分割する

・この小単位を『ユニット』といい、どこへでも歩いていける直径2kmほどか



職・住・商・学・育・医・緑・遊などの近在

・近場に何でもあるまちは便利で住みやすい

・通勤が歩いて15分(自転車なら5分)というのは夢物語ではない

          

[従来の地区割りゾーニング]から [ユニット分割し諸要素を近在させた新しいゾーニング]へ


緑地の確保とエコネットワーク

・都市生活のクォリティーは緑の多さに比例すると言っても良い(もちろんそれだけではないのだが…)

・同時に緑の多さは資産価値を向上させる:皆が緑の多い都市で暮らしたいからだ

・土地所有者が1%ずつの土地を供出して緑地を造ると、家賃が10%ほど上がる

・つまり経済的にも得するのだ


気持良さ(ランドシャフト)を基準にまちを見直す

・気持良いまちは住みやすいだけではなく、生き延びやすいのだ(原則編参照

・看板、ネオンサイン、騒音、悪臭‥‥などの不愉快なノイズを減らそう

・本当に気持良いまちは、環境負荷も小さい(はず)


これらの対策により、通勤通学距離が激減し、しかも人々の移動や物流がバラバラになるので、朝夕の通勤ラッシュや交通渋滞が消滅する。住民の心身への負担が減り、自由時間も増える。近場に何でもある便利な街は、居住者の帰属意識が上がり、相互の思いやりが増す。そして皆が顔見知りなまちは安全性も高い。また家族が近くで生活することは、都市における安全保障の基本でもある。新しいまちづくりにより人の移動が減ると同時に物流も効率的になる。



【新しい道づくり】


クルマ社会を認めるかどうかで環境関係者は二分される。

豊かさと環境の両立を目指す『近自然学』はクルマを否定しないが、もっと上手く利用したい。

クルマにはメリットとデメリットがある。メリットを積極的に活かし、デメリットを抑えたい。

そのためには、我々はクルマとどう付合い、道づくりとどう向き合えば良いのか?


まず人の流れと物流を減らすことを考える

まず、怒濤のような人の流れと物量は減る。いや、減らさなければならない。毎日多くの人たちが決った時間に同じ方向に長距離を移動しなければならない状態は異常だ。移動手段に苦慮する前に、移動しないで済むように考えたい。東京=大阪間を1時間で結ぶ「リ○ア新幹線」など、近自然学からはとても正しい思考法によるソリューションとは思えない(もちろん、全く無意味とは言い切れないが…)。東京=大阪を多くの人々が往復しないで済むようなソリューションはないのか?


新しいテクノロジー(科学技術)への憧憬とそのビジネス化は理解できるが、本来テクノロジーは目標達成のための手段だ。進むべき方向(ヴィジョン/理想像)と到達目標がしっかり設定されておらず、手段が目的化したフォアキャストの典型的な事例ではないのか(『近自然学とは?:原則編』参照)。


毎日の通勤通学は不要になる

IT(情報技術:Information Technology)の進化により、毎日の通勤通学は不要になる。自宅勤務・自宅学習または地域勤務・地域学習が当たり前になるだろう。そもそも、同じ時間に同じ場所に多くの人を集めて同じことをさせるという手法は、産業革命以後の「従順な工場労働者」を大量生産するために発達したものなのだ。クリエイティブな人ほど苦痛を感じドロップアウトしがち。


クルマの所有から利用へ

個人がクルマを『所有する』時代は間もなく終わり、何らかの移動手段を『利用する』時代が遠からず来るだろう。『ドアtoドア』の便利さを提供するトラック輸送はなくなりはしないが、人件費や原油価格の高騰により贅沢品となり、トラックによる拠点間の長距離輸送は減らざるを得ない。鉄道や船舶とトラックとのシームレスなコラボレーションを実現したい。そのためにも市街地や集落の集中高密度化が重要だ。


クルマは趣味の対象に

市街地内ではクルマはシャトル化し、郊外では多くのクルマはドライブを楽しむためのものになる。良いクルマはモノとして素晴らしいオーラを放つ。また趣味の対象として、クルマのメカや機能はとても魅力的だ。その場合、ハイテク車よりローテク車の方が楽しい。時計や万年筆やオーディオと似ている。


クルマはロボットが運転することになるのか?

『近自然道づくり』は人間が運転することを前提としている。原油価格の高騰などにより、将来、クルマはドライブという趣味の比重が増えるという予測(予言?)でもある。しかし、交通専門家の中には、近い将来クルマの運転はロボット化するという未来像を描く人たちもいる。それが、ITS(Intelligent Transport Systems:高度道路交通システム)というITを利用したハイテク交通システムだ。


これが進化することは間違いない。特に、ナビゲーションと交通情報の分野での進歩は確実だ。しかしながら、重大事故を避けるためには、全ての人やクルマの動きを事前に情報収集してリアルタイムに利用できるシステムとインフラが必要になる。時速50kmで走るクルマを安全に止めるには、20m手前でブレーキをかけるかどうかの判断をしなければならないからだ。つまり、安全性のためにクルマのスピードは時速30kmほどに制限しなくてはならない。しかもそのテクノロジーは日進月歩だろうから頻繁なアップデイトが不可欠だ。

大都市内のシャトル・システムは別として、世界はもとより日本でさえ全ての道路のインフラを整備し直し、それが正常に機能するように維持管理し続ける経済的な体力の余裕はもうない。バブル時代のはかない夢だったのか…


人間が運転するクルマのための道

そう考えると、ドライバーのロボット化は大都市内でのシャトルは別として、あまり現実的ではなくなる。つまり、人間が運転するクルマのための道を考えることは、これからも重要なことなのだ。そもそも、今までの道づくりは人間の心理に配慮していなかった。心理学の発祥発展の地であるスイス・ドイツ・オーストリアでは、早くからこの問題に気付き、新たな試みにより確実な成功をおさめている。


従来の道は1台のクルマがスピードを出すため

従来の道づくりは、1台のクルマが迅速に移動する(スピードを出す)ための設計だ。

そのため道は…

       *広く、真直ぐ、平ら

       *障害物がなく見通しが良い

       *夜も明るい

       *交差点は信号で制御

       *すべての危険要素を排除

       *速度規制によりスピード制御

となった。


その結果、いろいろ好ましくないことが起こることが分かった。

       *大事故の頻発

       *排ガスが多い

       *渋滞の慢性化

       *緊張感が失われて運転が退屈で眠くなる

       *速度規制が守られない:道路は速く走るように設計されているのだから当然か


1台のクルマがスピードを出して迅速に移動するための道路設計」では…

      *多くのクルマが同時に走る

      *スピードを出さない

と論理的に破綻する。現在、1台のクルマが単独で走ることは例外的だ。またスピード制限をしないこともあり得ない。


危険を感じる場所では死亡事故が少ない

交通事故の犠牲者(つまり大事故)が最も多いのは交差点、次が直線路、最も少ないカーブは直線路の半分に過ぎない(警察庁 2008年出典)。


事故が起こる原因は、本当は危険なのにドライバーが危険を感じないからだ。我々は危険を感じるから身を守ることができる。つまり、軽い危険要素はむしろ残した方が安全なのだ。そこで、人命尊重のため、交差点はロータリー(ラウンドアバウト)制御に変え、曲がりの多い道にする。

 

ロータリー(ラウンドアバウト)のメリットは以下。

 *ストレスとなる不要な完全停止が激減する(そのためには、入り口で一時停止をさせないことが重要)

 *排ガスが減る:完全停止からの発進が減るため

 *渋滞解消に貢献:交通の流れがスムースになり、沢山のクルマをさばけるため

 *大事故が激減:自然にスピードが落ちるため

 *三差路から六差路まで柔軟に対応できる

 *変形交差点にも対応できる(ロータリーは円形である必要はない)

 *右折もUターンも自由自在

 *防災上有利:信号機がないので停電でも混乱が起きない

 *ドライバーにとって危険要素として機能するので、眠くならない

 *エコロジカル・ネットワークに貢献:中央部を在来種で植栽できるため


危険な場所でゆっくり走るのはストレスを感じない

反対側の見通せないロータリーはドライバーにとっては危険要素だ。危険な所でスピードを落とすのは当たり前のことで、心理的なストレスは生まれない。むしろストレスは危険を感じない従来の見通しの良い交差点で減速しなければならない時に受ける。同様に広く見通しの良い道で低速で走らされるのは大きなストレス。さらに、信号機によって不要な長い完全停止を強要されると大きなストレスを受ける。だから信号が青に変わった途端に急発進してストレス解消したくなるのだ。ストレスは心身に良くないので、ストレス解消は我々が備えている本能的な防御本能だから。


同じ道でもスピードによって流せる交通量が変わる:時速60kmが最も多い

同じ道であっても、スピードによって流せるクルマの量(交通容量という)が変わってくる。どういうわけか日本では速度に関係なく一定とされているが、ノロノロ運転では多くのクルマを流せないのは自明だ。反対に高速では車間距離が広がり多くのクルマを流せないことも分かっている。それにも関わらず世界中の警察が「高速では車間距離を取れ」というのは、走っているクルマの持つエネルギーは速度の二乗(E=mv2/2)で急増するからだ。つまり、低速でも高速でも交通容量は落ちる。ということは、その中間に一番多くのクルマを流せるピークがあるということ。この交通容量のピークこそが我々が探し求めるものだ。スイスでの実測では、一般道路60km/h、アウトバーン(高速道路)80km/hであった。日本でも多かれ少なかれ、そのくらいの速度になるはず。


結論:

クルマの利便性などのメリットを最大限活用し、交通犠牲者などのメリットを最小限に抑えるためには…


時速60kmでコンスタントに走るのがベスト

上の諸問題を解決するための方策をまとめると…

       *大事故を減らす:街路樹や曲がりなどの危険要素により、スピードを落とす

       *排ガスを減らす:燃費の最も良い60km/hでコンスタントに走る

       *渋滞を減らす:道路の利用効率の最も高い60km/h(高速道路80km/h)でコンスタントに走る

       *緊張感を持続させる:適度な危険要素を意識的に配置する(適度の緊張感は楽しさにもなる)

       *スピード制御:速度規制がなくても良いように心理的に制御する


つまり新しい道は、『速度規制をしなくても時速60kmでコンスタントに走ることができる道』だ。

       *狭く、左右にワインディング(蛇行)し、地形なりにアップダウン

       *木々で見通しが悪い

       *夜は暗い

       *交差点はロータリー(ラウンドアバウト)で制御:信号機をできるだけ設置しない

       *並木や交通島など適度な危険要素を適所に配置して緊張感が持続するので運転が楽しく眠くならない

       *心理的にスピード制御



今までの道と正反対なので戸惑う専門家もいるが、思考法(パラダイム)が異なるのでしようがない。もちろん論理的・合理的に考えた結果、こうなったのであり、わざわざ正反対にしたわけではない。他にも、横断歩道、集落の入り口など、大事故の多い危険な場所には、意識的に危険要素を配置し、ストレスなく自然にスピードが落ちるように配慮する。


スイスでの交通犠牲者は確実に減少

これらの発想転換と地道な努力の結果、スイス・ドイツでは死亡事故が確実に減少している。


スイスでの年間の交通事故の犠牲者数は1971年の1,773名をピークに、2010年は328名に減った。しかもこの間にクルマの台数は10倍(オートバイも含めると2倍)に増えているにも関わらずだ。


【新しい川づくり】



[従来の川づくり]


なぜ従来の川づくりではダメなのか? なぜ新しい川づくりが必要なのか?

‥‥それは、時代が変わって我々の価値観が変わり、川づくりに対する新しい時代の多様なニーズに応えることができないから。また、今までの川づくりでは、(極言すれば)洪水安全性だけを考えていれば良く、新しい時代が求める多様な要求を満足させることができないから。


結論:

洪水に対する安全性を十分に確保しながら、気持ちの良いランドシャフトも生き物たちの多様性も実現する‥‥そんなことが実現可能なのか? 可能である。ではどうすれば良いのか?

それは…

『川とその周辺にできるだけ大きな空間を確保すること』


あらゆる要求を同時に満足させる

新しい時代の川づくりでは、

 *洪水安全性 (治水)

 *土地利用

 *水利用

 *自然環境:健全な水循環

 *エコロジー:生物多様性

 *ランドシャフト:気持良さ

 *親水性

 *自浄力:水質自己浄化能力

 *環境負荷:石油エネルギーや資材の投入量

 *予算

などへ同時に配慮し、川というシステム全体のクォリティー・アップを実現する。


1970年代にスイス・チューリッヒ州とドイツ・バイエルン州で始まった『近自然川づくり』は1980年代後半に日本にも紹介され、1990年に日本でも当時の建設省河川局が全国通達の形で公式に採用した(日本では『多自然(型)川づくり』という)。この近自然川づくりは、人間の豊かさと環境を両立させた河川改修法だ。人々の物質的な豊かさのために、人命財産を水害から守ると同時に、人間の『心の豊かさ』も大切にする。それは多様な生き物たちが棲める河川環境であり、また素晴らしいランドシャフト(気持良い川)を実現することでもある。


近自然川づくりに特別な手法、工法、資材があるわけではないが、従来の川づくりとは目指すものが違うので、それらの選択は当然のことながら異なる。そしてその結果である川のたたずまいは従来のそれとは劇的に異なって素晴らしい。


できるだけ大きな空間をとる



その川の自然なダイナミクス(元気さ:浸食)を利用する


・ダイナミクスは、形、生物多様性、ランドシャフト、水質など全ての根源

・ダイナミクスとは川の持つ自然な活力で、浸食・堆積・洪水・変転などによって計ることができる

・ダイナミクスを上手く利用すると、失敗がなく、ローコストで環境負荷が少なくて済む


洪水対策は、どこもかしこも一律に守るのではなく、守るべきものの価値に見合って守る

 (1991年施行のスイス連邦『水域保護法』によって規定された)


・人命と農地や森林は同じ価値ではない

・差別化して守ると、価値の高い人命財産を守りやすくなる


少なくとも、土木、生態、景観の専門家のチームワークが成功の秘訣

・土木技術者だけで決めると、本人たちは環境に配慮したつもりでも、的外れなことが多い



システム思考とバックキャストを忘れない

工法、資材などのパーツの検討から始めないこと

・これは典型的なパーツ思考で、エンジニアが落ちやすい落とし穴

・パーツは目標達成のための手段にすぎない

・しっかりした到達目標が設定されていないと、手段が目的にすり替わってしまう


川づくりの成否は、ダイナミクスの大小で判定する

近自然川づくりの初期には工事前後の生態調査(動植物種とその個体数を地図上にプロットする)の比較で判定したが、量的な判定に偏りがちで質的な判定が至難である。種数や個体数が増えれば良いというわけではない。例えば、ある種が増えたことは、その川にとって本当に良いことなのか、実は不自然なことなのかの判定は至難だ。その川の自然な状態をイメージできなければ、この判定は不可能。また、生態調査は長期にわたって何度も繰り返す必要があり、一応の判定できるまで10年近く、最終的な判定には20年かかる。その上、コストもばかにならない。ゆえに生態調査は川の生態面の詳細を知る必要がある場合に行う。


現在ではプロジェクトの成否判定はその川の本来のダイナミクスが維持されているか、復元されたかでされる。




        [再改修前、再改修中、再改修7年後のスイス・チューリッヒ州 ネフバッハ川]

        1960年代に農地の排水のため掘り込まれ石畳により真っ直ぐに改修された

        汚水処理場が整備されて水質が良くなったため、住民から近自然化の要望が強まった

                        1983年、試験的にごく簡単に近自然化を試みたが、その効果は劇的だった

        それまでの排水路が『春の小川』に豹変したのだ

        しかもほとんど予算をかけずに(重機1台で1日100mほど工事が進んだ)



        [再改修前のドイツ・バイエルン州 ガルミッシュ-パルテンキルヒェン ロイサッハ川]

        切り出した木材を下流のミュンヘンまで流すために、約100年前に真っ直ぐに改修された

        両岸は空石積みで護岸され水辺に近付けない

        単調なランドシャフトという問題だけではなく、川のエコロジーの問題、水質浄化能力の低下もある

        改修から100年近く経ち、再び水害が頻発しだしたため、再改修が必要となった



        [再改修(近自然化)後11年目の状態]

        水害の頻発をおさえるため、1994年に近自然化の再改修を受けた

        水害に対する安全性、ランドシャフト、親水性、エコロジー、自浄力などあらゆる点で改善された

        しかもそれが比較的ローコストで実現でき、環境負荷が小さいのが近自然工法の秀でた点

        森の中のように見えるが、実はガルミッシュ-パルテンキルヒェンの市街地内だ!



【新しい森づくりと『陽光林』】


日本の森づくり(林業)には補助金の形で多額の税金が投入されている。それにも関わらず儲からない。つまりビジネスとしては破綻しているのだ。スイス・ドイツでも状況はそれほど違わない。いや、違わなかった、と言うべきか。この10年ほどで森づくりの状況が大きく好転しているからだ。

何が起こったのか? それが、新しい森づくり『近自然森づくり』だ。それは一体どんなものなのか?


新しい森づくりは全ての要求を満たす

我々にとって森とは何か? 我々は森に何を期待するのか?

財産? エネルギー源? 太陽エネルギーの有効利用? 脱・石油依存? エコロジー? 酸素供給? 炭素固定? 安全性? 水源涵養? リクリエーション? 子どもたちの情操教育? 森林文化? 雇用? …

それぞれの興味によって『森づくり』は変わるのか?

全ての要求を満たす『森づくり』はあるのか?

『ある』のだ。それがスイス・ドイツを中心として広まりつつある『近自然森づくり』だ。

『近自然森づくり』は我々の森に対する期待を全て満足させるもの。


『近自然森づくり』は‥‥


 ・定期的な利益を得られる

 ・クォリティーの高い木材や安価な燃料を供給してくれる

 ・木材のリユース(再使用)を繰り返すことにより、極端な石油依存から脱することができる

 ・森林は太陽エネルギーの塊だ

 ・生物多様性が高い

 ・成長力が高く、酸素の生産量や炭素固定量が大きい

 ・保水力が大きく、風倒木が出にくく、人間にとっての安全性が高い

 ・良質の地下水を安定的に得られる

 ・気持良い森で、林業のための林道を散策などのリクリエーションに利用できる

 ・森の幼稚園、森の学校など子どもたちの情操教育やサバイバル体験の素晴らしい場となる

 ・森は我々の心のふるさとと言える

 ・素材生産だけではなく、サプライチェーンの全般で雇用の確保が可能


そんな上手い話しがあり得るのか?

あり得るのだ。ただし、その森づくりは今までのやり方とは根本的に異なる。古いやり方を(ほとんど)変えずに、林業経営が上手く行かないことを嘆いていないだろうか?


『元金』から『利子』へ:『蓄積量』から『成長量』へ

森づくりを変えるとはどういうことか?

今まで、我々は狭い意味での森の資産を増やそうと努力した。森の資産とは、経済で言えば『元金』で、つまり『バイオマスの蓄積量』のこと。そしてその資産を定期的に収穫(皆伐)する。そうすると元金はゼロに戻り、またゼロからのやり直し。

新しいやり方は、森の利子を増やすようにし、その利子を永続的に得ようとするもの。森の利子とは『バイオマスの成長量』のこと。

バイオマスの蓄積量(元金)は時間とともに増えるが、次第に増え方が飽和する。バイオマスの成長量(利子)はある所に鋭いピークがあり、その前後では少ない。成長量のピークはバイオマスの蓄積量がほどほどの状態で、むしろ明るい疎林に近い。暗い密林では蓄積量(元金)は多いが成長量(利子)は少ない。つまり、成長量(利子)の大きいのは明るい森なのだ。




森は皆の共有財産

森は林業ためだけのものではない。林地は所有できても、森という機能は地球上に生きる人類や生き物たち、みんなの共有財産である(『森の民』であるゲルマン民族の共通認識)。だから健全な森林機能の維持のために、補助金などの形で税金を投入するのは間違いではない。全国民の利益になるからだ。ただし、現在の日本の補助金は目的ではなく、特定の手段に対して出される。特に林業、それも特別な形態の林業に偏っているのではないか。


森林が人類や生き物たちの共有財産なら、その財産価値とは何か? 森林所有者や林野庁などの管理者は、その財産の価値が持続する、またはさらに上がるような森林管理と林業施業をしているのか? そもそも財産価値が持続する、または上がるような森林管理と林業施業とはいったいどのようなものなのか?


これらの疑問に『近自然学』は答えなければならない。その一つの回答が『近自然森づくり』だ。


林業とは…

タダの太陽の恵みである木々をマンパワーで付加価値を付けて材木などとして売るなりわいだ。太陽エネルギーを効率良く凝縮できなかったり、石油エネルギーを大量に投入したり、マンパワーでの付加価値が上がらなければ上手くいかない。また上手くいったとしても、それが一時的であれば持続しない。


近自然理念である『環境と豊かさの両立』を森づくりに応用したものが『近自然森づくり』なので、近自然森づくりでは『環境と経済との両立』を実現させる。つまり、環境と経済が両立するような森林管理や林業施業をするという意味。


『近自然森づくり』で期待できるものは…

  *生物多様性:樹冠の開いた明るい森の生物多様性が高いことが分かっている

  *安全性(崖崩れ、雪崩、洪水など):下草がしっかり生えて表流水が少なく、崩れにくい

  *水源涵養:表土が厚く保水性が高い

  *気持良さ(リクリエーション):色々な樹種が混じった明るい森を我々が気持良く感じる

  *太陽エネルギーの有効利用:樹冠の高さがデコボコなので太陽エネルギーを取り込みやすい

  *森林の資産価値の基本である『地力』を養う

  *教育効果:森の幼稚園、森の学校など

  *社会貢献(雇用の促進):林業の活性化と若者たちに新しい雇用を提供する

  *森林文化の醸成:森は我々の心のふるさとだ

などと

  *持続的な林業経営:定期的な収入が持続する

とを両立させること。


『陽光林』とは…

そのための有効な手法が森林の『陽光林化』だ。

陽光林』とは、 収穫が手入れになる択伐と天然更新をベースとした在来種の明るい複層針広混交林のこと。樹種が多様で、適度に太陽光が地表まで差し込んで下草が生え、明るく気持良く多くの生き物たちが棲める森だ。そして、そんな森を人為的に実現することを『陽光林化』という。


陽光林の考えの基になっているのがLichter Waldライトフォレスト)』。ライトフォレストとは、樹冠の70%以上が開放され太陽光の差し込む明るい森のこと。これは1980年代のウイーン大学での、『森の移り変わり(遷移)と生物多様性に関する研究』の成果から発展した考えだ。


森の一生のうち最も生物多様性の高いのは最後の30%ほどで、この時、樹冠はオープンであちこちに倒木もある。この状態が『ライトフォレスト』。ところが、林業が使うのは森の一生のうちの初期の40%だけで、生物多様性はそれほど高くない。生物多様性が上がる前に伐採してしまうからだ。そこで、この生物多様性の高い最後部分(ライトフォレスト)に近い状態を森林管理によって人為的に実現するのが『陽光林化』だ。林業施業をする場合には、ライトフォレスト(70%の樹冠を開放)ほどは樹冠を開けない。



             スイスでは光の差し込まないヨーロッパトウヒの密林を『陽光林化』する努力が続けられている

             『陽光林』は下草がや若木が生え、針葉樹と広葉樹の混ざった複層混交林で、明るく気持良い森

             『陽光林』では生物多様性を重視した森林管理と持続的林業経営を両立させる


石炭・石油の台頭以来見捨てられていた感のあったスイスの森林だが、1980年代の市民の環境意識の高まりと共に、生物多様性やリクリエーションの面から再び注目されるようになった。そんなことから、スイス・チューリッヒ州では1995年に州の自然保護課やいくつかのNGPが中心となって、生物多様性を支援するためのプロジェクトが立ち上がった。それが『Lichter Waldライトフォレスト)』だ。


しかし林業経営が立ち行かないと森林管理も持続し得ない。経済的負担に耐えかねて、遠からず放置されるからだ。また、しっかりした利益を生まない業種は若者たちに見向きされず、明るい未来もない。そこで、『Lichter Wald』の考え方を林業優先の経済林にも応用した『陽光林』が注目されることになる。それが近自然森づくりだ。


経済面からもエコロジーやランドシャフトや安全性の面からも世代を超えて持続し得る『陽光林』を実現するためには、その管理担当者である有能な『フォレスター』の存在が不可欠だ。スイス・チューリッヒ州では、フォレスターは市町村の公務員で、彼らがマーキングした木々以外の伐採が禁じられている。個人の森林で所有者個人の消費のためであってもだ。

スイスのフォレスターに関しては、別項参照(http://kinshizen.jp/homepage/rolf_stricker-jp.html)。


UP!

【新しいエネルギー利用】


今、エネルギーを考えディスカッションしているのは、これまでエネルギーでビジネスをしてきたか、そこから研究費を得ている研究者たちがほとんどだろう。つまり『メシのタネ』としてのエネルギーだ。エネルギーの利用者である市民の目線での研究や議論は少ない。エネルギーの大転換期に当たり、エネルギー・ビジネスの当事者たちにとってはおおごとなので当然のことか。近自然学はエネルギーでビジネスをしないので、自由な立場で研究でき物が言える。


日本だけでしか通用しない「自然エネルギー」とか「新エネルギー」という表現にお目にかかる。日本の行政が作り出した言葉のようだが、石油も自然エネルギーであり、太陽エネルギーほど古いエネルギーはない。間違えた表現は間違えた理解や概念を生むので止めよう。世界的には『再生可能エネルギー』または短くして『再生エネルギー』が正しい。


エネルギーに関して、「石油の代替は何か?」というディスカッションが多い。しかし石油に代わる便利なエネルギー&資源は『ない』。石油を100%止める必要はないし、そんなことは非現実的だ。ただし、石油をいきなり燃やすのはあまりにももったいない。


近自然学の原則『脱・石油』でも述べたように、環境と豊かさを持続させるためには、再生エネルギー、それも太陽エネルギーの有効利用が不可欠だ。太陽エネルギーとは、地球から1億5千万キロ離れた太陽での『核融合エネルギー』で実質的に無尽蔵だ。とはいえ、石油をすぐに全廃しなければならないわけではない。再生エネルギー(太陽エネルギー+地熱と潮汐)の有効利用を進めていくうちに、高価な石油の消費量が次第に減るはず。再生エネルギーで足らない分を石油などの化石エネルギーで補えば良い。原子力については最後に書く。そして脱石油(脱依存)は日本のリスク・マネージメント(安全保障)からも大変重要なことだ。


太陽エネルギーは環境負荷がなく無尽蔵ではあるが、十分にあるのか?


計算上、人類の消費しているエネルギー量の約1万倍(日本では近海を含めて約1千倍)降り注ぎ続けている。

あとは有効利用を考えるだけ。


石油のような集中エネルギーは集中利用が原則。集中エネルギーは集中利用する(一ヶ所に大きな施設を造る)と効率が上がる(スケール・メリットという)ので得策だ。しかし、ソラーパークやウインドパークなど分散エネルギーを同じように集中利用している例を多く見かけるが、これらは決してうまいやり方ではない。それは自然の摂理(法則)に反するから。もしかしたら『石油ボケ』か?


では、どう利用したら良いのか?


太陽エネルギーは分散利用が大原則

太陽エネルギーは薄く広く分散したエネルギーである。我々が使い慣れた石油などの集中エネルギーとは性格が異なる。したがって正しい使い方も異なる。

一ヶ所でまとめて獲得(または生産)して分配するのが集中利用。それに対して分散利用とは、使う場所やその周辺で獲得(または生産)するという意味。太陽電池や風車はソラーパークやウインドパークではなく、各家庭の屋根の上に設置するのが上手いやり方。


   太陽エネルギーは分散エネルギーなので、その利用は『分散利用』が基本

   風力利用は僻地に大型風車をズラーッと並べるのではなく、各家庭や工場などに小型の縦軸型風車を設置するのが良い

   しかも発電にこだわらずに、できれば風の力を動力として利用することをまず考えたい

   そうすればロスの大きなエネルギーの輸送と変換をしないで済み、効率が大きくアップする


小型でも効率が落ちない

分散エネルギーを集めても効率が上がらない(スケール・メリットがない)。逆に、分散しても効率が落ちないので、分散利用に向いている。例えば、太陽電池は面積を大きくしても効率は(ほとんど)上がらないし、逆に小さくしても効率は落ちない。だから時計や電卓などの小型の太陽電池は理にかなった利用法といえる。


廉価なローテクを広く

低密度の太陽エネルギーにはハイテクへの投資が見合わない。高価なハイテクを少しより、廉価なローテクをできるだけ広く使う方が有利。多くの太陽エネルギーをとらえるために広い面積が必要だからだ。


太陽熱調理器:晴天時ではポップコーンができる(300℃超)


色々な形のエネルギーを総動員

太陽エネルギー起源のエネルギーはどれも石油のような集中エネルギーではないので、大きなエネルギーを獲得するためには広い面積を必要とする。そこで、その場所にある色々な形のエネルギーを総動員することになる。獲得も多様なら、利用も多様だ。


輸送しない:地産地消

太陽エネルギーは必要な場所の近くで獲得し、輸送しないで使いたい。そうすると効率が良いからだ。


形を変えないで使う

太陽光、太陽熱、風力、水力、間接熱(太陽で温められた地表や水や空気中の熱のこと、冷熱も含む)、バイオマスなど太陽エネルギーには色々な形がある。必要な形を必要な場所の近くで獲得し、元の形のままで輸送しないで使うと最も効率が良い。光が必要なら窓を大きくして自然光の採光を考える。熱が必要なら太陽熱や地表熱、または温泉などの地熱を利用する。動力が必要なら、風力や水力を利用する。家を建てるなら地元の木材を使う。全てのエネルギーをいったん発電してから電気で使うのは、快適かもしれないが、ロスが大きいのであまり上手いやり方ではない。

運動エネルギーを使うクルマは…



形を変えないで溜める

今までのエネルギー貯蓄は電気バッテリーがほとんど。これは電気エネルギーを化学エネルギーに変換して貯蓄するもの。現実のエネルギー効率は70〜80%。つまり20〜30%はロス(熱などの形で)として逃げてしまう。これはエネルギー変換(形を変える)の宿命。これを避けるためにはエネルギー変換をしなければ良い。電気エネルギーは電気で、運動エネルギーは機械エネルギー(運動、ゼンマイ、圧力、位置エネルギーなど)で、熱エネルギーは熱で‥‥貯蓄すれば良いのだ。

‥‥とは言っても、この分野の研究は遅れていて実用化にはほど遠いか。


木質バイオマスはカスケード利用を

例外的にバイオマス(生物資源)は太陽エネルギーの中では比較的集中したエネルギーであり、同時に資源(固形物)でもある。特に木質バイオマス(木材)はとても便利なのでうまく利用したい。木材を有効利用するためには、大きな物から小さな物へ『リユース(物の再使用)』を繰り返す『カスケード利用』が基本だ。


1回リユースすれば資源が倍増したことと同じ(2回では3倍増、3回では4倍増)。そして、バイオマスの有効利用で忘れてはならないのが、農林水産業の体質改善、つまり石油漬けからの脱却だ。


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近自然学では核エネルギー利用(特に原子力発電)をどう考えるのか?


結論を先に言えば、原発はできれば避けたい。それはリスクが大きく、安全確保などのために莫大なお金がかかるからだ。そして太陽エネルギーという無尽蔵のエネルギー源がほとんど使われていないのだから。


人類のテクノロジーは核エネルギーに対して未成熟

原子核の持つエネルギー(原子力)は膨大で人類が御し切れないほど。熱を利用したいにも関わらず、原発ではその熱の半分を冷却して捨てているのはその現れ。たとえて言えば、魔法使いの弟子のようなものか。人類のテクノロジー(科学技術)は、核エネルギーを気軽に広範囲に使いこなすほどには成熟していない。これが問題の第1点。


プルトニウムなどの放射性の核廃棄物が蓄積し続ける

核分裂により地球上で最も毒性が高い物質とされ原子爆弾の原料ともなるプルトニウム239(半減期は2万4千年)など放射性の強い核廃棄物が出て、それはほぼ永久に蓄積し増え続ける。日本は2009年末の時点で144トンのプルトニウムを国内に保有してる(IAEA発表)。これが問題の第2点。


安全性はお金をかければいくらでも上げることができるが…

福島原発事故以来、世界中で原発の安全性の問題が大きな議論になっている。しかし安全性はテクノロジーで(ほぼ)解決できるのだ。原発の安全性はお金さえかければいくらでも上げることができる。ただし、ビジネスとして採算が取れなくなるので、営利目的ではどこまでも安全性を上げることはできない。ビジネスのために安全性を落とさざるを得ない(はからずも2011年3月の福島原発事故で証明されてしまった)。


原発の最大の問題はお金がかかる点

問題は安全性そのものではなく、そのために莫大なお金がかかること。つまり原発の最大の問題は『金食虫』という点だ。安全性を上げるためばかりではなく、研究開発、施設建設、核燃料再処理、メンテナンス、解体撤去、そして放射性の核廃棄物の保管にも莫大なお金がかかる。


危険を感じたら避けるのがリスク・マネージメントの鉄則

原発に対して我々は本能的に拒否反応に近い居心地悪さを感じる。そしてそれは被爆国民である日本人だけではなく全世界共通だ。人類や動物には危険を察知する能力があり、『気持良くない、居心地悪い、不快』などは、我々が直感的本能的に危険を察知していること(『近自然学の原則編』参照)。危険を感じたら、すぐに回避するのがリスク・マネージメントの鉄則だ。危険を分析して証明していては手遅れになるかもしれないのだから。


原発の電気は安いのか?

火力発電などに比べて原発による電気は安いと言われるが、これはコスト計算上のトリックで、核エネルギー関係の費用をどこまで加算するかでどうにでもできる。つまり、核エネルギーは採算をあまり考えない軍事目的以外では使う意味があまりないのだ。


原発はCO2を排出しないのか?

運転時にCO2を排出しない点がPRに良く使われる。だから、環境に優しいとも。CO2排出が良くないのは温暖化を進めるという認識からだろう。『近自然学の原則編』で述べたように、CO2と温暖化との因果関係は見直しが必要だし、そもそも、温暖化より寒冷化の方が人類にとってずっと怖い。

確かに原発は稼働時にはCO2をほとんど排出しない。しかし、資源調達、燃料処理/再処理、建設、解体、核廃棄物保管‥‥など、ライフサイクルの全てを見れば、CO2を排出しないわけではない。

それにもまして、原発が大量の熱を排出している事実を忘れてはいけない。原発は間接的な温暖化物質ではなく熱そのものを直接排出しているのだ。これを『熱汚染』という。


原子力は石油の代替となるのか?

石油がピークオイルを迎え価格高騰が顕著だ。石油に代わる代替エネルギーとして原子力が有望だと言われる。本当だろうか?

核燃料となる放射性のウラン235(半減期は約7億年)は天然ウランの1%にも満たず、その埋蔵量は金より少し多い程度。なにより地中や海中に低密度で分布しているのでとても使いにくい。いずれにしても有限の資源なのでたいして頼りにならない。


原子力以外に代替エネルギーはないのか?

ある。それが『太陽エネルギー+地熱&潮汐』だ。

原子力に人類の未来を託せないなら、核関係に使う莫大な税金(研究、慰撫、誘致などで、日本だけでも年間1兆円規模と言われるが正確には不明)や優秀な研究者の投入は無駄となる。それらを無尽蔵の『太陽エネルギー+地熱&潮汐』に向ける方が、持続的な人類の幸せのためにずっと良い。


太陽エネルギーの研究は?

ドイツでの太陽エネルギー関係の研究費は核エネルギーのそれの50%程度だと、研究者自身から聞いた。それに対して日本ではわずか1%程度といわれる(本当だろうか?)。これでは遠からず大きく差を付けられるに違いない。投資や研究を原子力へ集中することは、リスク・マネージメントからもアブナイ。それは一発当てる形であり、多様性がないからだ。


クルマのEV化は原発推進と表裏一体

近年、クルマのEV化(ガソリンやディーゼル・エンジンを電気モーターに置き換える)がクローズアップされている。特に、中国、インド、アメリカ、イギリス、フランス、日本などが積極的だ。中国やインドの大気汚染はひどいので、その面が強調されがちだが、欧米や日本はどうなのか?

世界中のガソリン車をEV化すると、原発が約6,000基必要となる。

日本のガソリン車だけをEV化すると原発90基が必要。そんなことは不可能。では、日本のガソリン車の半数だけをEV化して原発45基。さらにその半数分を太陽光発電でまかなっても原発22基の建設が必要となる。

これから分かるように、アメリカ、イギリス、フランス、日本などがクルマのEV化に積極的なのは『原発推進と表裏一体』というのは深読みし過ぎだろうか。


原発を廃止すれば日本経済は壊滅するのか?

スイスやドイツは福島原発事故を受けて、いち早く原発廃止を決めた。実はスイスは電力の40%を原子力に依存しているのだ。しかし『新しい時代は再生エネルギーの時代』というのは世界共通の認識だろう。


人類のエネルギーの世代交代をみると…(右:全太陽エネルギーをまとめた図):出典:IIASA

ピークオイルだけではなく、ピークガスもピークウランも来る。

石炭はピークオイル後に一時盛り返すが、再び落ちる。

バイオマスと水力は横ばい。風力を含む太陽エネルギーはこれから凄い伸びとなる。

エネルギーでビジネスをするならここが狙い目だが…


つまり原発に明るい未来は期待できなのだ。日本経済が原発に依存している限り、遠からず破綻する。確かに核エネルギー関係でビジネスをしている巨大企業も多く、それらを無視するわけにはいかない。しかし、それらの企業の生き延びのためにも、新しい時代にふさわしい新しいビジネスへかじを切って欲しい。

それだけではない。脱石油(石油への依存から脱すること)ができないなら、日本はやはり遠からず破綻する。しかも再生エネルギーの開発に積極的な国々に技術的に大きく水をあけられ、日本は三等国へ転落してしまうだろう。


豊かに生き延びるために一刻も早く再生エネルギー関係の研究とビジネスへの転換が不可欠だ。2050年までに再生エネルギーのテクノロジーを実用化できるかどうかで明暗をわける。残された時間はそう長くない。


日本で有望なのは…

  *膨大な資源蓄積量を誇る林業の健全化(『新しい森づくり』参照)

  *ウッドチップによる地域暖房とそのシステムの技術革新

  *太陽電池とその利用システムの技術革新

  *太陽熱温水器のさらなる技術革新

  *小型縦軸型風車とその利用システムの技術革新

  *マイクロ水力発電装置とその利用システムの技術革新

  *地熱や間接熱(地表熱、大気熱、水熱、冷熱など)装置とその利用システムの技術革新

  *潮汐と海流の利用システムの技術革新

  *そしてこれら全てのシステム化(そこにある再生エネルギーを有機的に結び付け有効利用する)

などか。



【新しい農水産業】:林業は『新しい森づくり』参照


今や日本はおろか世界中の珍味が

 だれでも、どこでも、いつでも、何でも、安く、しかも迅速に

手に入るようになった。とても便利だ。確かに便利ではあるが‥‥これを『豊かさ』と呼べるのか? また、これで我々の人生がより『幸せ』になったのだろうか? 便利さと引き換えに、失ってしまった大事なものもあるのではないか?


この便利さは集約農業、大量生産、環境破壊、長距離輸送などの石油の大量投入の結果でもある。だから持続し得ないことは明確だ。近自然学は利便性や快適性を否定しない。場合によっては環境負荷さえ容認する。環境負荷はペナルティーで高価になるだけだ。しかし、それにより肝心の人生のクォリティーが落ちたり、幸せに貢献しないなら話は別。冬のトマトやイチゴは旨くない。ぜんぜん豊かな気持ちになれないし幸せも感じない。


我々の五感は危険センサーであることを『近自然学の原則』の項でお話しした。旨くないのはその五感に違和感のある状態で、我々が本能的生き延びにくい、健康に良くない、子孫が繁栄しにくい‥‥などと直感している証拠だ。旨くないのは、だからノイズ。できれば我々の周りからなくしたい。


持続のためには『石油の投入を減らす』こと。これからさらに高騰する石油を大量に投入する農業や水産業は持続し得ない。石油の投入量を減らすと、自然にその土地にふさわしい旬のものを適量生産、または漁獲することになろう。同じ物でもあり余るほどあると我々は旨さや幸せを感じなくなる。少々不足ぐらいが良いのだ。


そこで、農林水産業の体質改善のキーワードは『脱・石油(石油漬けからの脱却)』だ。言い換えると、いかに『太陽エネルギーとマンパワーを有効に利用』するか。さらに『脱・依存』。できるだけ『衣・食・住・水・エネルギー・資源の自立』を目指したい。安易に輸入せず、その土地にあるものを最大限利用することだ。そしてそれは、国や地方や個人の安全保障上の基本でもある。


  

                                  [野菜1kgの輸送に必要な石油の量](資料:WWFスイス)

                                  当然のことながら、地産地消が石油の投入量が最も少ない

                                  海外から、しかも航空便で輸送すると圧倒的に大量の石油を使うことになる


  

                                  [野菜1kgの生産に必要な季節による石油の量](資料:WWFスイス)

                                  旬の野菜が旨くて石油をそれほど使わない

                                  冬場のハウス栽培が石油を大量に使うとは限らない

                                  ハウス栽培は本来太陽エネルギーの有効利用法であり、暖房がいけないのだ


野菜はエネルギー効率が比較的高く、その野菜をエサとする肉は低くなる。だから肉は価格が高いのが当然。



1kgのビーフを生産するためには、7kgの穀物と20tの水を必要とすると言われる。つまり、1kgのビーフを輸入するのは、7kgの穀物と20tの水を輸入することと同義なのだ(バーチャル・ウォーターと言う)。故に、『地産地消』を原則とし、長距離輸送、特に国外からの輸入はできるだけ避けたい。


収入ではなく利益(純所得)を増やす

我々が求めるものは手元に残る利益(純所得)だ。利益を上げるために収入(売り上げ)を増やす。収入を増やすために生産量(漁獲量)を増やす。そのために機械化を進める。そうすると、地下資源と石油エネルギーの投入量が増える。それは支出の増大になり、あくせく働いても、手元に残るのは借金ばかりという悲惨な結果となる。


利益を増やすためには、資源と石油の投入量を減らして支出の削減を図る。不要な人件費の削減はやらざるを得ないが、マンパワー(人件費)での経費削減は要注意だ。反対に、マンパワーで付加価値を上げる。。農産物や水産物を原料として売るだけではなく、加工して付加価値を上げるようにする。その場合も、地下資源と石油エネルギーの投入だけで付加価値を上げてはならない。マンパワーを最大限活用することが大事だ。知恵を絞り、優れた手作業や肉体労働によってヴァリュー・アップをする。アイデア、創造性、手作り、最高のクォリティーなどに価値を見いだすのが新し時代の特徴でもある。また『地方色』や『季節感(旬)』を大事にすることがヴァリュー・アップに貢献する。いつでも、どこでも、誰でも手に入るものに大金は払いたくない。


まず農業者・漁業者自身が、その土地の旬でしか味わえない最高の旨い物を堪能することが大事。余りを分けてあげるくらいに考えたい。しかも気持良いランドシャフトの農村、漁村で、都会では絶対に得られない贅沢で豊かな生活を送る。


まとめ

近自然農林水産業では『非集約、脱石油、自立(脱依存)』『太陽エネルギー、マンパワー』『地方色、季節感、クォリティー重視』などがキーワードとなる。



【新しいビジネス】


今ビジネスは世界中で危機に直面している。今までの経済理論は通用しなくなり、それに変わる決定的な代案はない。かつては花形であり資本主義経済を支えてきた成長理論は、今や完全に時代遅れとなった。世界中の企業や国々が永久に成長し続けることなどできない。


単純な計算で、毎年5%ずつ成長し続けると、50年後にはなんと11.5倍にふくれ上がる。これは非現実的。そんなに多くの資源もエネルギーも労働力もマーケットもないからだ。成長を悪と決め付けることはしないが、成長しなければ生き延びることができないシステムでは持続し得ない。つまり遠からず破綻する。この状態を放置すると、いずれは肥大化した1国、1社、1人になってしまい、そこで成長の可能性は終わる。そんな恐怖映画のような惨状は避けたい。


では、成長を必要としない、『永遠に持続し得るシステム』とはどんなものか?


我々が欲しいのは収入(売上げ)ではなく手元に残る純所得利益)だ。いくら収入が多くても、支出も多ければ純所得は小さい。今まで我々犯した間違いは、収入を増やすために支出が増えることを考えなかったこと。利益を増やすために売り上げ(収入)を増やす。売り上げを増やすために生産量を増やして価格を下げる。つまり大量生産と薄利多売だ。地下資源や石油エネルギーをどんどん投入して生産量を増やしたわけだ。


このシステムが上手く機能するためには、石油や原料が安いこと。輸送費が安いこと。人件費が安いこと。そしてマーケットが拡大し続けることなど。しかし、これらの前提条件が崩れてしまった。原油価格が高騰し(前述)、原料価格も同時に高騰。この両者は一体だから。


原油価格が上がれば、それにつれて原料価格(資源や穀物など)も上がる。原油価格が上がれば輸送費も上がる。諸物価が上がると同時に人件費も上がる。先進国の人件費が高過ぎるからといって、開発途上国へ生産拠点を移す企業が多かった。しかし開発途上国の人件費もいずれ上がる。さらに人件費の安い低開発国へ拠点を移せば良いのか? 取りあえずの一時しのぎにはなるだろうが、このいたちごっこが上手くいかなくなるのは時間の問題。大変な苦労をしても、単なる一時しのぎでしかない。


解決策は?

それは‥‥ナイショ!

いや、ちょっとだけお教えしよう。


売上げを増やさなくても利益(純所得)が上がるように考える。つまり、支出を抑えること。特に、資源とエネルギーへの支出を抑える。反対に、人件費の支出は抑えないか、少なくとも慎重に考える。人件費とは労働者の給与だからだ。今まで我々が犯した間違いは、コストカットを人件費を抑えることで実現し、資源エネルギーへの支出を抑えなかったこと。リストラが解雇と同義になってしまったが、本来のリストラは再構築、再編だ。解雇によるリストラしかできない経営者は能力不足と言われてもしかたないのではないか。



反対に付加価値の上げ方も間違えた。ヴァリューアップを地下資源と石油エネルギーの投入によってしようとした。物量投入だ。大きくて重い物が価値が高いという間違ったイメージが浸透してしまった。これでは持続しない。持続を考えた時、正しいヴァリューアップはマンパワーによるもの。頭で考え、器用な手作業や肉体労働によってクォリティーを上げることだ。


マンパワーによる付加価値は環境負荷がほとんどない上、収入のほとんどが手元に残る純所得(利益)となる。精密なスイスの機械式時計や独創的な北斎の浮世絵などは、その良い例。


間違えたビジネスに対するイメージの普及により、日本社会全体がギスギスし、そして貧しくなってしまった。他人や他社や他国をけ落とすこと以外に自分や自社や自国の成功や幸せがないのでは、そうならざるを得ないではないか。しかしこれは典型的な対立思考から来ている。そんな社会や考え方をいつまで容認するのか。ビジネスにおいても両立思考によるパラダイム・シフトは可能なのだ。そしてそれは我々一人一人の問題であり責任だ。

結論:


古いビジネスが立ち行かなくなれば、新しいビジネスを立ち上げれば良いと考えがちだ。しかし、そうすると業績がV字形となり、破滅のリスクが増える。では、どうすれば良いのか?


今のビジネスをいきなり止めなくても良い。しかし次第に減らして行く。と同時に、将来の目標を立てた上で、新しいビジネスを今から始める。これは将来の救命ボートなので、今、採算が取れなくても良い。そうすると、業績はフラットで、しかも体質改善が自然に確実に成功する。


【新しい教育】


今、かつて優秀といわれた人材が思うように活躍できなくなっている。それは時代が変わったからだ。時代が変わるとは、我々の価値観が変わること。価値観が変わればニーズ(求めるもの)が変わる。ニーズが変わればマーケットが変わる。マーケットが変われば、それに対応するシステムが変わらなければならない。


それにも関わらず、教育システムが変わらない。旧態依然として一昔前の時代が求めた人材を教育し続けている。いまだに、ある特別な専門分野で深い知識を持つスペシャリスト(専門家)を大量生産するように特化したシステムを変えることができない。


新しい時代が求めるのは、広い視野、豊かな感性、鋭い洞察力、システム思考などの能力と同時に、国際性学際性を有する人材だ。このような人材をユニバーサリスト(万能家)という。さまざまな国々のさまざまな分野のスペシャリストたちをコーディネートできる人。コーディネーター、プロデューサー、マネージャーとでも言えようか。色々な分野のスペシャリストたちの話を理解でき、その人たちに自分の言いたいことを説明でき、プロジェクトのクォリティーを上げる能力を持った人材。素晴らしい結果を出せる人。


‥‥つまり、現場で使い物になる人材なのだ。もちろんスペシャリティ(特別な専門分野)を持ったユニバーサリストであれば理想的


このまま子どもたちをスペシャリストの大量生産工場(学校、大学のこと)で教育し続けていて良いのか? 大量生産とは同じものを短期間にたくさん作ること。それで子どもたちは幸せな人生を歩むことができるのか?


価値観の転換は教育の場でも有効だ。 新しい価値観を教育の場に応用すると、学校や大学はどんなシステムになるのか?



量から質へ

どれだけ知識が多いかを競う時代は終わった。そんなものはコンピューターに任せれば良い。これからの優秀な人材はコンピューターができないクリエイティブな能力を要求される。また、自分で考え、その考えを他人に伝える能力も必要。それらがクォリティーだ。社会が求める、使い物になる人材を育てることができるシステムでなければ、教育の役目を果たせない。


*大学数は半減:勉強が好きな者だけが入学する

日本の大学数は多過ぎ。半減させたい(半分でも多過ぎるくらいだが…)。

日本の大学では、学生たちが勉強しないと嘆く教員が多い。これは、教育内容が退屈なのと、勉強が嫌いな学生が入学しているのだろう。この両方を変えたい。『教育内容』については前述した。つまりユニバーサリストの養成だ。


勉強が好きな者だけが入学する大学システムを考える。

高校卒業試験をもっと充実させ、大学入試を廃止する。自由にどの大学へも入学できるようにして、学生が集まらない大学は廃止。入学が自由なので、中退という概念は消える。つまり卒業できなければ入学しても無意味ということ。今の日本の大学は勉強しないでも卒業できる。そんな大学はいらない。勉強が嫌いな者には別の人生の道があり、大学へ入ってこないシステムが必要だ。


*職業訓練学校を整備

大学へ行かなくても、豊かで幸せな人生を送ることができる。そのために職業訓練学校をしっかり整備し、社会の基盤を固める。日本は大学も低レベルだが、職業訓練はレベルの問題の前に存在しないに等しい。徒弟制度が日本の伝統だと言う人がいるが、これは機能しなくなって久しい。それにも関わらず新しい教育システムを整備しなかったのは国(文部科学省)の怠慢以外の何物でもないのではないか。またそれを放置容認した専門家、マスコミ、そして国民の責任は大きい。


集中から分散へ

一ヶ所に、同時に集めて教育する時代は過去のもの。従順な工場労働者を大量生産するための教育システムだ。これからは、学校(と呼べるのかどうか)はどんどん小単位になり、最終的には個人教育に行き着く。


いまの教員は子どもたちの大量生産のための教育を受けているので、新しい時代のニーズに応えることが難しい。新しい時代の教育システムでは職を失うか再教育が必要なので、大きな抵抗をすることが予想される。


一様から多様へ

皆が同じことが美徳であった時代は終わった。皆が異なることこそが豊かさだ。それぞれの個性と資質を見極め活かす教育は、小単位とならざるを得ない。教師ひとりに子どもたち5名が限界。できれば3名。理想は1名。つまり個人教授。


所有から利用へ

個人個人が所有する時代は終わった。独り占めが快感であった時代も過去のもの。卒業証書や資格やタイトルなどを誇る時代も過ぎ去った。いや、実際には残っているのだが、それは恐竜が今に生き残っているようなもの。ガラパゴス状態とでも言えようか。


スイスやドイツでは卒業資格では良い職は得られない。経験、つまりどこで何をしてきたか、を求められる。古い教育を受けてきた若者たちには厳しい時代だ。大学も実習を重視して、卒業と同時に即戦力となる人材の教育を目指すようになった。


*国際性学際性について…

国際性とは外国語を話せることではない。いや、話せるに越したことはないのだが…。日本人としてのアイデンティティをしっかり持つことだ。そして全世界の様々な文化や風習の人たちとコミュニケーションがとれること(通訳を介しても良い)。


学際性とは異なる専門分野の人たちとコミュニケーションがとれること。ここでも、しっかりしたスペシャリティ(専門分野)を持ったユニバーサリストが理想的。しっかりしたスペシャリティは国際性における自己のアイデンティティと同じ意味だから。


*スイスの教育システムに学ぶ

国民1人当たりのノーベル賞受賞者数とパテント申請数が世界一のスイスでは国民の教育は死活問題だ。もちろんそれは大学教育だけではない。修士大学、専門大学、職業訓練学校の3段階がある。修士大学は研究者養成のため。実務者養成は専門大学。教員、音楽家、芸術家などの養成もここ。そして30業種を越える充実した職業訓練学校が社会の基盤を支える。つまりリーダーの英才教育と同時に、社会を支える実務者の養成と職業訓練をもしっかりやっているのだ。


修士大学は、人口750万人のスイスで総合大学10校、工科大学2校しかない。東京都の半分ほど、ほぼ大阪府ほどの地域に合計12校だ。もちろん、実務者養成のための専門大学がその倍ほどあるので、日本流に言えば30校ほどになろうか。しかもその全ての大学のレベルは世界最高水準なのだ。そしてこれはスイスが豊かに生き延びるためにしっかり貢献している。つまり、教育は国が豊かに生き延びるためのリスク・マネージメントなのだ。


【新しいライフスタイル】


時代が変るということは人々の価値観が変わること。価値観とは人生において何が重要かということ。その価値観が変わるとライフスタイルも大きく変る。そして、新しいライフスタイルは、環境負荷が小さいだけではなく、我々の心を豊かにしてくれる。つまり、環境と豊かさを両立させることができるのだ。これこそが近自然学が目指すもの。





【新しい社会システム】


時代が変って我々の価値観やライフスタイルが変わり、社会のニーズ(求める物)も大きく変わった。社会のニーズは多様になり、画一的ないわゆる大衆マーケットは消滅しつつある。ところが、従来の社会システム(行政や企業の組織など)はある特定のニーズに応えるように特化しているので、新しい多様なニーズや複雑なマーケットに対応できない。たて割り行政などが批判されるのはそのためだ。

それでは、社会システムはどう変われば新しい時代の多様なニーズや複雑なマーケットに対応できるようになるのか?


従来のピラミッド・システム

たて割りといわれる従来のシステムは、係、課、部、局、省‥‥など小さなセクションが集まって次の大きなセクションを作る。全体としてピラミッドのようになるので『ピラミッド・システム』と呼ぶ。これは『階層構造』『ヒエラルヒー重視』『たて割り組織』『横割り組織』でもある。上下秩序とセクション秩序で、縦横ががんじがらめとなり柔軟性に欠ける。



仕事は係や課などのセクションに与えられ、それを係長や課長が構成員に割り振る『分業』でもある。セクションは同じ仕事をし続けるルーチンワークに特化しており、そのための専門家を集めてある。そんな専門家集団のセクションに多様なニーズに応えられないと批判する方が間違いなのだ。

では、多様なニーズに応えることができる新しいシステムはどんなものなのか?


新しいタレント・プール・システム

近自然学の提案は『タレント・プール・システム』だ。『人材プール・システム』『人材バンク・システム』『タレント・バンク・システム』ともいう。全ての人材をプールに浮かべたピンポン球のようにフリーな状態にしておき、プロジェクトごとにリーダーが最もふさわしい人材を集める。基本的に上下関係が存在しない『平面構造』 だ。プロジェクト・リーダーを中心とした『能力重視』『柔軟組織』で、自立した個人を統合する『ネットワーク』でもある。 プロジェクトが終了すれば、リーダーもろともチームは解散する。持てる人材の能力とモティベーションを最大限活用するプロジェクト最優先のシステムだ。映画の制作など、良い結果を出すことが求められるフリーランスの世界では当たり前のシステムだ。つまり、企業や行政では能力ある人材が良い結果を出すことを古いシステム(組織)が邪魔していたのだ。


給与システムも変わる

給与システムも変わる。今までは役職給や時間給だった。能力、やる気、努力などではほとんど差がつかなかった。新しいシステムでは、最低賃金にプロジェクト給与が上乗せされる形になる。つまり、企業や社会にとって有益な沢山のプロジェクトを走らせれば、それだけ収入増となるわけだ。これを「不平等」と批判する人がいるかもしれない。しかし、全ての人が同じ仕事や同じ給料を得る方が悪平等であり不公平だ。優秀な人、努力する人が報われるシステムは機会均等(みなに同じチャンスがある)であり、むしろ公平といえよう。



このシステムは、将来は企業や行政などの枠を超えて、社会全体として実現されることになるだろう。優秀な人材はいろいろな企業やいろいろな国の仕事をすることになる。それこそが人材の有効利用と言えよう。


無条件基本所得保障システムとワークシェアリングを社会全体で

この新しいタレント・プール・システムと同時に、新たな賃金システムの導入も実現されることになろう。それが『無条件基本所得保障システム(ベーシック・インカム・システム)』。これは全ての人々が生まれてから死ぬまで、年齢に応じて最低限の所得保障が得られるもの。この世に生まれて生きることに人間としての価値を見いだす(今までは、就業に価値があった)という考え方だ。同時に、家事、出産・育児、家庭内介護、ボランティア活動など、社会にとって重要でありながら今まで収入が得られなかった仕事に対しても暖かい目を向ける意味がある。今までは「働かざる者、喰うべからず」と言いながら、家事や出産・育児など、社会にとってとても重要な仕事に対して金銭的な報酬がなかったのはおかしいではないか。


無条件基本所得保障システム』の導入により、人々は安心して生活できるだけではなく、問題の多い、生活保護、年金、失業保障、障害者援助などの運営と監視システム(不正や悪用が跡を絶たないため多くのGメンを雇用しなければならない)が不要になる。これにより多くの優秀な人材と多額の経費の節約が可能となるのだ。


日本ではこの『無条件基本所得保障システム』が導入されると誰も働かなくなると信じている人が多い。そんなことはない。せいぜいお金のために嫌々働くことがなくなるだけ。そもそも現状では、働きたいのに働けない人々が若者を中心に溢れているではないか。日本中で、自己のアイデンティティを失い、自殺に走る人が多いのは有名だ。


にもかかわらず、就業者は『過労死』するほど酷使される。社会に失業者が溢れると、就業者がこの人たちを支えなければならないのだから、当然といえば当然か。皆がもっとゆったり暮らせないのか?


その答えが『ワーク・シェアリング』だ。


ワーク・シェアリング』とは、1つの職を数人で分け合うこと。例えば、夫婦が60%ずつ 働けば(つまり週3日ずつ働く‥‥週休4日!)、1人がフルに働く以上の収入を得る。しかも十分な自由時間が生まれ、その生活のクォリティーは比較できないほど上がるだろう。そして両親が家にいることにより、子どもたちの受ける恩恵は計り知れない。


スイス・ドイツでは『無条件基本所得保障(ベーシック・インカム)システム』が具体的なディスカッションの段階に入っている。さまざまな計算法があるが、官僚システムを大きく改変せずに、年金・生活保護・失業手当・障害者保障などのシステム廃止とわずかな付加価値税の増税による財源だけで、成人1人平均月額28万円ほど、子どもは年齢によるが7〜8万円支給可能と言われる。夫婦2人で約56万円。さらに子ども2人の家族で約70万円。子ども2人の母子家庭で約44万円。もちろん就業によりさらに収入が増える。これを多いと見るか少ないと見るか‥‥

このシステムを夢物語と見るむきもあるが、スイスでは2016年にこの制度導入の成否を決める国民投票を実施することが2014年に決った。


新しい時代のニーズに応えられない効率の悪い(ほとんど動脈硬化を起しているような)官僚システム(そもそも強大な官僚システムは封建制度の残滓といえよう)に根本的なメスを入れるなら、支給額は倍増することになりそうだが‥‥それを断行するかどうかは国民の判断にかかっている。その前に、スイスのように『公務員の身分保障撤廃(2001年、公務員は自由契約となったので、役に立たない者を解雇できると同時に、有用な人材には倍の給料を払っても納税者のために活躍してもらうことができる)』と『政治家のボランティア化(元々、議員には議会の当日だけ日当と交通費が支給される)』を実施すると良いだろう。「日本では実現不可能だ!」という声が聞こえてきそうだが、本当にそうだろうか? そんなに簡単に諦めてしまって良いのだろうか?

おわり




文責:山脇正俊

『近自然学・ 近自然工学』研究・啓発

スイス近自然学研究所代表 

北海道科学大学客員教授

SADO専門学校 ユニバーサルアドバイザー 

スイス連邦工科大学・チューリッヒ州立総合大学講師:武道

環境・オーディオ  コンサルティング 


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